高石市のおいたち

「音に聞く高師浜の・・・」と詠われた高石の地は「高脚」とも書かれ、その昔からの白砂青松の美しい所として天下に知られ、持統天皇の御代世に各地に禁断漁猟区域が制定されたときには、「準河内国高脚海」と「高師浜」の地が基準とされたほどです。   また、上古に百済の博士、王仁(わに)がその一族の工芸技術家たちをつれて来朝した関係で、本市大工村(現在の高師浜の一部)の村民の大半は大工を家業として、明治維新までは京都御所の内匠(たくみ)寮の支配下にありました。他の住民は農業・漁業を営み、風光明媚な農漁村として大きな盛衰も見ずに近世に至っています。   本市はもと和泉の国大鳥郡に属し、江戸時代には幕府の直轄地で、庄屋が村務を扱っていましたが、明治5年に戸長制度が布かれ、堺県和泉国第1区・第5区に分割所属し、のち第2区第1小区と第4小区に改められました。   さらに、明治13年4月、第2連合戸長役場の管轄になり、同17年7月には高石南村、高石北村、今在家村と新村の4か村で第9戸長役場を設置。ここに初めて現在の高石市の基礎が確立され、同22年4月の町村制度で、高石村(人口3,307、世帯610)として地方自治の第一歩を印しました。また同29年4月、大鳥郡から泉北郡に変わりました。   明治34年3月には、葛の葉駅(現高石駅)が開設し、同37、38年の日露戦役の際に海浜地帯13万坪に俘虜(ふりょ)収容所が置かれました。撤去後、道路や下水溝を新設、良好な住宅地としての面目を備え、村勢は目ざましく進展し、大正4年1月には町制(人口4,809、世帯数935)を施行。   また、昭和28年4月に、東部に隣接する旧取石村を編入合併して、6.19平方キロメートルの町域を有するようになり、その後、人口の急増や臨海工業用地の造成などにより著しい発展をとげ、昭和41年11月1日に高石市(人口47,650、世帯数12,325)として発足しました。現在の市域は海面埋立の面積を入れて11.30平方キロメートル。人口58,108人、世帯数25,103世帯(平成28年2月末現在)です。  

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